礫陵新聞アーカイブ
ARCHIVE
礫陵新聞は、昭和24年6月20日に第一号が創刊され、平成元年までの約40年間、
多くの在校生新聞部員の筆で、若松高校の発展の歴史を刻んできました。
新聞部のOBの方々や本校の協力を得て収集された礫陵新聞を掲載しております。
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1989年 第176号_平成元年03月09日
スキー教室を終えて・芝学年主任、寒げいこ・大貝学年主任 -
1988年 第175号_昭和63年12月24日
全国高校サッカー選手権福岡大会・惜しくも準優勝 -
1988年 第174号_昭和63年07月20日
第38回若戸大会、突撃レポート・ハンド部・部員は27人 -
1988年第173号_昭和63年03月09日
卒業生諸君へ・繁田校長、いい出会い・川原教頭 -
1987年 第172号_昭和62年12月24日
放送部九州大会出場、挑戦・生徒会長松田年正君 -
1987年 第171号_昭和62年07月20日
若戸大橋歩道閉鎖、集団宿泊研修を終えて・西原学年主任 -
1987年 第170号_昭和62年03月07日
サッカー部県大会を制覇!-伝習館を退け-、寒稽古終了 -
1986年 第167号_昭和61年03月01日
三たび「蘇る赤岩黒岩」について・吉開校長 -
1985年 第164号_昭和60年02月28日
野球部にピッチングハウス、オタンバ遺跡-卑弥呼の鏡- -
1984年 第161号_昭和59年02月29日
記念企画高校新聞記者・沖縄み・た・ま・ま
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1978年 第148号_昭和53年03月01日
増える就職希望減る求人、【訪問】油絵がご趣味・上島先生 -
1977年 第147号_昭和52年12月24日
多数の生徒が感激!「奇跡の人」戸畑で観劇、コーラ中毒 -
1977年 第146号_昭和52年10月27日
各大学具体案うちだす-共通一次テスト- -
1977年 第145号_昭和52年06月07日
やぐら復活は無理か-49年体育祭で姿を消したやぐら- -
1977年 第144号_昭和52年03月01日
国立大一本化へ-54年入試から、なんだ坂こんな坂若高坂 -
1976年 第143号_昭和51年11月16日
授業料値上げ-来春から三倍近く-、陽気な彼だった -
1976年 第142号_昭和51年07月20日
食うか?食われるか-食堂問題-、非常ベルの有効性 -
1976年 第141号_昭和51年05月31日
別名:入乱悪徳 インターアクトクラブ-ぜーんぶおんな -
1976年 第140号_昭和51年03月01日
卒業生に贈る辞-人生夢の如し 松崎猛男校長 -
1975年 第139号_昭和50年11月05日
我が校にもついに大きな事故が バイクが若い我々に・・・ -
1975年 第138号_昭和50年07月19日
【他校訪問】新しい校舎も建って-県立若松商業高校- -
1975年 第137号_昭和50年05月27日
生徒と密着した生徒会を、上級生はおいさんばっかり -
1974年 第135号_昭和49年11月02日
自覚せよ!高校生らしさ-文化祭事件-、吹奏楽部九州大会 -
1974年 第133号_昭和49年05月28日
どう考える!教師のスト-教職員スト、その全景- -
1973年 第129号_昭和48年07月20日
汗とほこりの総合優勝-若戸大会-、排球部全国大会へ -
1973年 第127号_昭和48年03月01日
クラブ必修実施か?-もめる職員室-、石炭鉱夫と圧制 -
1972年 第125号_昭和47年10月24日
守れ!着帽規則-忘れられた制帽-、【訪問】清家先生 -
1972年 第124号_昭和47年07月20日
死への招待-どうなる洞海湾の汚濁- -
1972年 第122号_昭和47年03月01日
横井庄一元伍長と日本の過去・現在・未来 -
1971年 第121号_昭和46年12月24日
来春通学区拡大!若松は東筑と同じ第4区へ -
1971年 第120号_昭和46年10月21日
波紋呼ぶ対立 犬猿の仲?教育委・日教組 -
1971年 第119号_昭和46年07月20日
【プール】夏休み期間解放・総工費1,500万円 -
1971年 第118号_昭和46年05月06日
近くなった中国-以外に高いGNP-、今年も浪人優勢 -
1971年 第117号_昭和46年03月01日
はかどらない予算折衝-減少する予算-、70人の遅刻者
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1970年 第116号_昭和45年12月24日
汚れゆく海・響灘、卒業生だより・東海鋼業(株) -
1970年 第115号_昭和45年11月11日
【投書】こら!掃除をしろ、洞海湾-水質基準案決まる- -
1970年 第114号_昭和45年07月16日
【主張】「校歌」なぜ歌われぬ、知らぬ第二水俣病 -
1970年 第113号_昭和45年05月12日
ミスは続出するが-万国博覧会- -
1970年 第112号_昭和45年03月01日
70年に飛び立つ-高校生活は何色?- -
1969年 第111号_昭和44年12月22日
西日本高校演劇コンクール-みごと!一位の栄冠- -
1969年 第110号_昭和44年10月25日
現代社会の産物-シンナー・ボンド遊び- -
1969年 第109号_昭和44年07月19日
近代化の脱皮必要・行きづまる大学論-大学とは何か- -
1969年 第108号_昭和44年06月03日
動揺する70年-万国博覧会・安全保障条約- -
1969年 第107号_昭和44年03月01日
長髪全面的に許可-生徒の自覚はいかに- -
1968年 第106号_昭和43年11月01日
雄大な黒四の美-43年度修学旅行- -
1968年 第105号_昭和43年07月20日
剣道・ハンド県大会一位、次は九州大会 -
1968年 第104号_昭和43年05月14日
新図書館完成、学生運動「行動に不審を抱く」 -
1968年 第102号_昭和43年01月11日
”健康第一”体育担当 曽根先生の巻 -
1967年 第101号_昭和42年11月11日
君ならどう答える(校内インタビュー)、奮起せよ文化部 -
1967年 第100号_昭和42年05月09日
100号記念特集-青春の謳歌高校生活、赤司先生- -
1966年 第098号_昭和41年12月24日
走る走る寒気の中を-マラソン駅伝大会- -
1966年 第097号_昭和41年10月22日
知っていますか-三つある白山神社- -
1966年 第096号_昭和41年07月20日
熱さの中での奮闘-第16回若戸大会- -
1966年 特集号(昭和41年05月11日)
躍進するクラブ活動 文芸部,生物部・・・・ -
1966年 第095号_昭和41年05月11日
先生宅訪問-優しくて子煩悩で、岩田先生の巻- -
1966年 第094号_昭和41年03月01日
70%の就職-不況の波かぶる-、卒業生座談会 -
1965年 第093号_昭和40年12月04日
転起に立つ生徒会-第40年度後期生徒会- -
1965年 第092号_昭和40年10月07日
”闘魂”まさにその名!第17回体育祭-三年奮起およばず- -
1965年 第091号_昭和40年08月02日
体育館は完成したが-高まる不満、杜撰な建て方-
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1958年 第056号_昭和33年10月11日
文芸部機関誌『つぶて』発刊、籠球ついに国体出場逃す -
1958年 第051号_昭和33年01月16日
私立が国立を上回る-トップは九大は29名-、排球部は黄金時代 -
1957年 第048号_昭和32年08月01日
バックネット完成へ、『職場は生きた学問の場』安川電機小川堯子 -
1957年 第047号_昭和32年06月25日
先輩からの便り-東大・山本博昭-、ついに休校・流感猛威を振う -
1957年 第045号_昭和32年01月29日
『無用の卑屈を排して世界に習え』加来学校長、国立を目指す延べ150名 -
1956年 第044号_昭和31年10月20日
『武運開眼す』剣道部山崎監督、日野先生国体10年連続出場なる -
1955年 第035号_昭和30年02月05日
柔道剣道部寒稽古始まる、『社会を正しく』前委員長白橋誠一 -
1954年 第034号_昭和29年11月11日
就職第一号は住友銀行、ルーブル展見学 -
1954年 第033号_昭和29年09月21日
森本校長ご退職さる-教職30余年を後に-、『無償の行為』鶴島正男 -
1954年 第032号_昭和29年07月16日
全国制覇目指して-桑原哲哉談-、『七人の侍』と『ローマの休日』がトップ -
1954年 第031号_昭和29年06月16日
剣道団体完全優勝遂ぐ・個人桑原兄弟、北九州の方言 -
1954年 第030号_昭和29年05月04日
勉強の虫たらん-藤沢嘉国-、若松病院に松本先生を訪ねる -
1954年 第029号_昭和29年02月08日
第四回読売奨励賞山田先生に文部大臣賞、山岳部大山登頂 -
1953年 第028号_昭和28年12月22日
素朴な早稲田マン-早大山本英夫-、自然と親しむ採集・生物部 -
1953年 第027号_昭和28年11月09日
新生徒会発足す-委員長白橋、副委員長市川・山本- -
1953年 第026号_昭和28年10月05日
新聞部世論調査-50%強の軍隊は必要だ-、われらは夏をかく過ごした -
1953年 第025号_昭和28年06月13日
予算会議・各部の言い分、県北部地区大会東筑に敗れる -
1953年 第024号_昭和28年05月07日
晴れて桜の校門を-伝統を汚さず-、風刺と笑いの喜劇『殺人狂時代』 -
1953年 第023号_昭和28年02月10日
論説:大学進学者と就職者への言葉、演劇コンクール県大会に第三位 -
1952年 第022号_昭和27年11月27日
弓道の歴史と意義-久保正刀-、第2回若戸大会男女とも団体優勝 -
1952年 第021号_昭和27年10月27日
誦大会開かる-一位麻生幸徳-、第四回大運動会写真特集 -
1952年 第020号_昭和27年09月25日
若高の名誉をかけて”-上甲,白木,日野,江崎,藤島5選手団体代表へ- -
1952年 第019号_昭和27年06月21日
堂々飯塚商業を倒して優勝-野球筑豊大会- -
1952年 第018号_昭和27年05月09日
講和発効と心構え-校長森本鉄之助-、朝日新聞コンクールに5位 -
1952年 第017号_昭和27年03月01日
火野葦平氏を囲んで、本校男女制服決定す -
1951年 第016号_昭和26年11月30日
九州高校野球 予選決勝・東筑に延長15回3対2で惜敗すー -
1951年 第015号_昭和26年10月24日
校舎大改築具体化す-名実ともに県下一へ- -
1951年 第014号_昭和26年07月07日
六・三制はあくまで実施、三年生進学調査-九大が依然トップ- -
1951年 第013号_昭和26年06月09日
新校旗できる、全九州高校新聞コンクール-礫陵新聞第七位に- -
1951年 第012号_昭和26年03月09日
新校歌制定さる-作詞:火野葦平-、高校新聞の使命
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1950年 第011号_昭和25年12月06日
全国高校マラソン予選に優勝-大阪大会出場権獲得- -
1950年 第010号_昭和25年10月13日
端野君県代表で出場-初の国体選手に山岳部- -
1950年 第009号_昭和25年07月15日
郷土作家火野葦平氏を顧問に-北九州高校文芸会発足- -
1950年 第008号_昭和25年05月24日
論説:新制高校のあり方、新劇の杉村春子と語る -
1950年 第007号_昭和25年03月18日
新学年の構想-南北両校の緊密化- -
1950年 第006号_昭和25年01月23日
微積分-除外はデマ-、若高の歴史・思い出の桜トンネル -
1949年 第005号_昭和24年11月30日
貴女の手紙が米国へ-北九州ペンクラブ発足- -
1949年 第004号_昭和24年10月28日
北九州五市合併を聞く、共学初の若高運動会開催 -
1949年 第003号_昭和24年09月09日
若高防火団結成、二学期制も是か非か -
1949年 第002号_昭和24年07月20日
新制大学合格者判明-入学率百%の好調- -
1949年 第001号_昭和24年06月20日
礫陵新聞創刊号-新聞部創設・若人よ意気高らかに!-